※本記事は、日本人のルーツを歴史・DNA・心理学から考えるシリーズの一部です。
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【番外編】DNAが語る人類の旅——心理学から見た「近い他者」と少数派
はじめに
DNAが語る人類の旅——『日本人になった祖先たち』を読んで:前編・後編に書ききれなかった、もう少し考えたいことを番外編としてまとめました。
前後編では、主にDNAや歴史の視点から本書を読んできました。今回はそこに、私自身が学んできた心理学の視点も重ねながら、読後に残ったことを整理してみたいと思います。
遺伝と環境——ひとつ気になったこと
実は本書の中で、篠田さんは「遺伝と環境の両方が人間を形成する」と述べています。
でも結論では「遺伝子が近いから信じ合おう」になってしまった。環境の要素が、結論からそっと消えてしまったのです(笑)。
心理学的に整理すると——
遺伝は「気質」、つまり素材のようなもの。
環境は「性格・文化」、つまり育ち方です。
同じ東アジアでも——
日本は島国として縄文文化と融合し「和」の文化を育てた。
中国では広大な大陸国家の中で、中華思想が形成されていった。
韓国では、儒教的な階層文化が社会に強く根付いていった。
モンゴルは草原で遊牧文化を生きた。
アドラーが言うように、人は環境の中でどう意味づけするかによって変わります。
遺伝子が近くても、育った環境・歴史・文化が違えば、全く異なる文化や価値観が生まれる。それは当然のことなのかもしれません。
近いからこそ、起きること
心理学にはいくつか、「近さ」から生まれる興味深い現象があります。
ミラーリングという概念があります。人は似た相手に共鳴しやすい。でも似すぎると、今度は摩擦が生まれやすくなります。
フロイトの「投影」という概念もあります。
自分の中にある認めたくない側面を、似た他者に見出して攻撃してしまう。隣国に感じる「嫌悪」の一部は、実は自分自身の影を見ているのかもしれません。
ユングの「影(シャドウ)」も同じで、自分が抑圧した部分が、似た他者への攻撃として現れることがある。
そして内集団バイアス。
人は自分と似たグループを贔屓し、微妙に違うグループを排除しようとする。近いからこそ「うちとそと」の線引きが激しくなる。
遠い他者より、近い他者の方が激しく対立することは、日常の人間関係でもよく起きることです。
兄弟げんか、隣人トラブル、同族嫌悪——DNAが近いことは、信頼の保証にはならない。むしろ近さが新たな摩擦を生むこともある。
だからこそアドラーは、共同体感覚は「自然に生まれるもの」ではなく「意識的に育てるもの」だと言ったのかもしれません。
少数派が残したもの
もう一つ、この旅を通じて気になっていたことがあります。
少数派が与えた影響の大きさです。
縄文系はゲノムの2割弱でも、日本語や縄文由来と考えられる文化(和の精神)は、渡来系と縄文系が混ざり合いながら形成されていった日本人の中に受け継がれていきました。
台湾の原住民はオーストロネシア語族の源流として、太平洋全体に広がる文化の母体になった可能性があります。
そしてネアンデルタール人。
わずか2%の遺伝子でも、免疫や耐寒性という形で現代人の生存を助けている可能性があります。
心理学でも、集団の中の少数意見が長期的に多数派を動かすことがある(少数派影響力)。
アドラーの「勇気」も、一人の勇気が周囲を変えるという考え方です。
数や割合では測れない影響がある。
縄文人も、ネアンデルタール人も、台湾の原住民も——少数派が残したものの意味を、私たちはまだ測りきれていないのかもしれません。
おわりに
DNAが近いという事実は、信頼関係の出発点にはなれても、それだけでは十分ではない。
遺伝子という素材は似ていても、環境・歴史・文化という育ち方が、私たちをこれほど異なる存在にしてきた。
だからこそ、わかり合うためには意識的な努力が必要で、その努力こそがアドラーの言う「共同体感覚を育てる」ということなのかもしれません。
そして、どれほど少数でも、消えずに残り続けたものがある。
縄文の文化が、ネアンデルタール人の遺伝子が、今も私たちの中に生きているように——小さな存在が残すものの意味を、もう少し大切に考えていきたいと思います。
参考文献
篠田謙一『新版 日本人になった祖先たち―DNAが解明する多元的構造』(NHK出版、2019年)
※本記事は、私というフィルターを通して書いた読書感想です。歴史・科学的解釈には諸説あります。