幻影旅団は「仲間思い」だからこそ危うい――集団心理と組織論から考える『HUNTER×HUNTER』

幻影旅団は「仲間思い」だからこそ危うい――集団心理と組織論から考える『HUNTER×HUNTER』

※この記事は、単行本38巻までの内容を前提とした考察です。ネタバレを含みますので、未読の方はご注意ください。また、38巻までに描かれた事実の範囲で読み解いており、それ以降の展開で覆る可能性がある解釈も含まれます。

『HUNTER×HUNTER』を大人になって読み返していて、以前とは幻影旅団の見え方がずいぶん変わってきました。

昔は「圧倒的に強くて、悪のカリスマを持った集団」という印象が強かったように思います。

ところが今読み返すと、ちょっと違う疑問が浮かんできます。

旅団員は、みんながヒソカのような狂人なのでしょうか。

むしろ、パクノダ、マチ、ノブナガ、シャルナークなどを見ていると、仲間には情が深く、知的で、冷静な人物も多い気がします。

それなのに、組織として動くと、一般の人を大量に巻き込むほどの残酷な行動を取ってしまう。

ここが、私にはとても不思議に感じられました。

そして考えていくうちに、これは「一人ひとりの人格」だけではなく、集団そのものが持つ心理として考えたほうが、案外分かりやすいのではないかと思うようになりました。


目次

「仲間思い」と「残酷」は、意外と両立してしまう

旅団の特徴として、とても印象的なのが仲間への強い情です。

仲間が殺されれば激しく怒りますし、クロロのためなら自分の命を投げ出す団員もいます。パクノダ、マチ、ノブナガなどには、単なる利害関係では説明できない仲間意識があるように見えます。

一方で、その「仲間思い」が、旅団の外側にいる人にまで向けられているわけではありません。ここに、けっこう大きな落差があります。

たとえば、

仲間が殺される → 激しく怒る → 復讐する

のに対して、

自分たちが一般人を殺す → その人にも家族や仲間がいる

というところには、ほとんど意識が向けられていないように見えます。

もちろん、作中で単に描かれていないだけという可能性もあります。それでも、読者として見ていると、

「自分たちの仲間の命はとても重いのに、外部の人の命は驚くほど軽く扱われている」

というダブルスタンダードが、どうしても見えてきてしまいます。この構造を考えるうえで興味深いのが、心理学でいう内集団びいきという考え方です。


内集団びいき――「仲間」と「それ以外」を分けてしまう心理

内集団びいきとは、簡単にいうと、

「自分が所属する集団のメンバーを、外部の人より好意的に評価したり、強く助けようとしたりする傾向」

のことです。これは、必ずしも悪いものではありません。家族や友人、職場の仲間を大切にすることも、広い意味では内集団への結びつきといえるからです。

問題になるのは、それが極端になったときだと思います。「仲間を大切にする」という気持ちが、「仲間ではない人はどうなってもいい」というところまで拡大してしまうと、外部の人への倫理的な配慮が失われていきます。

旅団は、まさにこの極端な形として読むことができるように思います。そして、そこにもう一つ重なってくるのが道徳的離脱です。


「仲間を守るため」という正当化

道徳的離脱とは、簡単にいうと、本来なら「これは悪いことだ」と感じるはずの行為について、心理的なブレーキを外し、自分の行動を正当化してしまうことです。

たとえば、「人を殺してはいけない」という倫理観があったとしても、

  • 敵だから
  • 復讐だから
  • 仲間を守るためだから
  • 必要悪だから

という理由を重ねていくことで、行為への抵抗感を弱めることができてしまいます。

ここで大事なのは、「最初から何をしても平気な人間だった」とは限らないということだと思います。むしろ、「仲間を守る」という正当な気持ちから始まったものが、少しずつ変質していく可能性があるのではないでしょうか。


「流星街を守る」ための組織、だったはずなのに

幻影旅団の結成には、サラサという少女の死が関わっています。過去編(38巻収録)では、サラサを傷つけた犯人を見つけ出すため、そしてこれ以上流星街に同じような犠牲を出さないため、クロロが「これから沢山の人間を殺す。悪党として生きる」と宣言し、小悪党が流星街に近づけないような存在になることを、仲間たちと誓う場面が描かれます。

つまり結成の動機自体は、「流星街出身だと知らしめることで、小悪党を怖がらせ、近づけないようにする」という、明確な抑止力の発想でした。ここは旅団なりの筋の通った理由だったのだと思います。

ただ、そのあとの旅団の実際の行動を見ていくと、少し引っかかる点があります。抑止力というものは、相手が「これは流星街の人間だ」と分かって初めて機能するはずです。ところが旅団は、クルタ族への襲撃やヨークシンでの略奪・殺戮の際、自分たちが流星街出身であることを積極的に明かしていません。世間から恐れられていたのは、あくまで「幻影旅団(蜘蛛)」という名前と背中の刺青であって、流星街との繋がりが表に出たのは、ヨークシン編の終わり、マフィア側が偽装された死体を解剖した結果、判明したことがきっかけでした(この経緯を旅団側がどこまで意図していたのかは、原作でも明確には描かれておらず、解釈の分かれるところです)。

だとすると、結成当初に誓った「流星街出身だと知らしめて抑止力になる」というやり方は、少なくともそれまでの旅団の行動の中では、意図して実行されていたようには見えません。むしろ何年ものあいだ、出身を隠したまま盗みと殺戮だけを重ね、抑止力として機能したのはずっと後になってから、しかも自分たちの意図とは違う経路(死体の解剖)によってでした。

クルタ族への虐殺や、ヨークシンでの大量殺戮を、「流星街を守るため」という結成当初の誓いに照らして考えてみると、その行動がどう流星街を守ることにつながっていたのか、私にはやはり判然としません。

もし目的と手段がすっかり入れ替わってしまっているのだとしたら、「流星街や仲間のため」という言葉は、いつのまにか自分たちの行動を正当化するための理由になってしまったのかもしれません。

補足として、こういう変質の背景には集団極性化――似た考えを持つ人たちが集団で話し合ううちに、判断がもとの考えよりも極端な方向へ傾いていく現象――も、多少なりとも働いていたのかもしれません。「仲間を守るためなら仕方ない」が「敵には容赦する必要がない」に、さらに「俺たちは悪役なんだから当然だ」にと、少しずつ極端になっていく。旅団に実際にこの現象が起きていたと断定はできませんが、そういう見方もできるかもしれない、という程度の補助線です。


では、ヒソカは旅団より悪いのでしょうか

ここで、どうしても比較したくなるのがヒソカです。

ヒソカは間違いなく善人ではありません。むしろ、かなり危険な人物です。ただ、ここで「誰を、なぜ、どんな状況で殺しているのか」を少し分けて考えてみたいと思います。

ヒソカの場合、殺人の多くは「自分が楽しめる強者との戦闘」という目的と結びついています。ハンター試験や天空闘技場など、殺しが発生することを前提とした特殊な戦闘の文脈もあります。もちろん、それを理由にヒソカの殺人が正当化されるわけではありません。

ただ、「殺すことそのものを楽しむ危険人物」であることと、「集団として一般人を大量に巻き込む犯罪組織」であることは、少し違うようにも思います。

「狂人に見えるヒソカ」のほうが、実は一貫している

ここが、大人になって特に面白いと感じたところです。

ヒソカは「俺は俺の好きなことをする」という人間です。他人を巻き込むこともありますし、当然ながら倫理的に問題のある人物です。でも、自分の欲望と行動がかなり一致しています。

一方、旅団には「仲間を守る」という、ある種の正当な目的があります。ところが、その目的を掲げながら、一般人を大量に巻き込み、さらに自分たちの仲間が殺されると激しく怒る。ここに、私は強い違和感を覚えてしまいます。

もちろん、これは「ヒソカのほうが善人だ」という話ではありません。ヒソカが善人だからマシなのではなく、自分の欲望を大義で正当化していないぶん、行動の構造がシンプルで分かりやすいというだけなのだと思います。旅団は「大義」を掲げているからこそ、目的と行動のズレがかえって見えにくくなっているのかもしれません。


旅団が怖いのは、全員が狂人だからではない

ここが、今回の考察でいちばん大事に思うところです。

パクノダは仲間思いです。マチも仲間への情が深いですし、ノブナガも仲間をとても大切にしています。シャルナークは知的で冷静に見えます。

たとえば、パクノダが命を懸けてクロロを救おうとする場面での「私で最後に」という台詞は、象徴的だと思います。

旅団内の犠牲は、これで終わらせたい。その気持ちは、本当に切実で、嘘のないものだと思います。ただ、その視線は、あくまで「旅団の内側」で止まっているようにも見えます。旅団がこれまで奪ってきた、旅団の外側にいる人たちの命については、同じ強さでは向けられていません。

パクノダは、旅団の中では比較的良心的な人物として描かれています。それでも、彼女の「もう犠牲を出したくない」という思いの射程が、旅団の内側だけに閉じてしまっているとしたら、これは内集団びいきが、優しい人の中にさえ、いかに自然に組み込まれてしまうかを示しているように思います。

つまり、一人ひとりを見ていくと、必ずしも「何をしても平気な狂人」ではないのです。それなのに、旅団という集団になると、大量殺戮が起きてしまう。

だから私は、

旅団が怖いのは、全員がヒソカのような狂人だからではありません。むしろ、仲間には優しく、知的で、情のある人たちが、「旅団」という集団に所属することで、外部の人に対して極端に冷酷になれてしまうことなのではないでしょうか。

と感じています。これは、現実の組織について考えるときにも、少し怖い話だと思います。

そして、この構造を作ってしまった側の責任も、少し考えてみたくなります。


そして、もう一つ気になるのが「組織としてのリスク管理」

ここまで考えてくると、クロロにも少し疑問を持つようになりました。

クロロは戦術的にはとても優秀です。しかし、「組織を長期的に存続させるリーダー」としては、本当に優秀なのでしょうか。

ヒソカを、能力を十分に検証しないまま入団させてしまいます。その後、ヒソカとの戦いで団員を失います。さらに、ヒソカと繋がりのあるイルミを、しかも操作系という最も悪用リスクの高い能力を持つ人物を、また十分な吟味なく迎え入れてしまいます。

そしてヨークシンでは、旅団そのものが大きなリスクを取った結果、ウヴォーギンとパクノダを失い、クロロの念能力まで封じられてしまいました。その後のヒソカとの戦いでは、コルトピとシャルナークまで失うことになります。

クロロは「自分がいなくても旅団は存続できる」と本気で認識しているようです(センリツいわく嘘はないとのことです)。しかし実際には、クロロという求心力を失った瞬間、旅団という結束そのものが崩れかけました。だからこそパクノダは、寿命を犠牲にしてまで彼を救おうとしたのではないでしょうか。

本人は「自分は必要不可欠ではない」と思っているのに、実際には組織全体が彼一人に依存してしまっている。局所的な戦術の知能は高いのに、組織運営やリスク管理、長期的な視野という意味での知性は、あまり伴っていないように見えます。個人としての「クロロ」と、リーダーとしての「団長」が、どこか噛み合っていないような印象を受けます。

もちろん、これをすべてクロロ一人の責任だと断定することはできません。ただ、「強いから何とかなる」という判断が、少しずつ積み重なっているようにも見えます。旅団に必要だったのは、さらに強い戦闘員ではなく、組織としてのリスクを考えられる人間だったのではないでしょうか。


そこで、なぜか浮かんでくるのがミルキでした

ここでようやく、ゾルディック家のミルキについて考えたくなります。

以前は、ミルキを「引きこもりの太ったオタク」という程度にしか見ていませんでした。でも、大人になって読み返すと、印象がかなり変わってきます。

まず大前提として、ミルキは決して倫理的に無害な人物ではありません。ゾルディック家の人間ですから、暗殺にも関わっています。ですから、「実は優しいお兄ちゃんでした」という単純な話ではないのです。

むしろ面白いのは、暴力や暗殺を肯定する環境にいながら、とても現実的で、自分の感情や欲望を比較的コントロールできているように見えるところです。

兄と弟が天才なのに、自分の居場所をちゃんと作っている

ミルキの兄にはイルミがいますし、弟にはキルアがいます。どちらも暗殺者として非常に高い才能の持ち主です。ゾルディック家という環境で考えると、これはかなり厳しい立場だと思います。普通なら、「自分は兄弟より劣っている」という劣等感に飲み込まれてもおかしくありません。

ところがミルキは、兄弟と同じ土俵で競争することを選びませんでした。ハッキング、情報収集、機械、武器開発など、自分の得意分野を伸ばしていきます。

これは、自己効力感や社会的比較への適応といった視点から見ると、少し分かりやすくなる気がします。兄弟との比較で「自分はダメだ」となるのではなく、「自分には自分の得意分野がある」と、自分の価値を別の領域にちゃんと築いているように見えます。しかも、それが実際にゾルディック家の戦力として機能しています。

支配するイルミ、交渉するミルキ

ここが、旅団との比較で特に面白いところだと思います。

イルミは、キルアに対して「自分の望む方向に相手を動かす」という、支配・操作型の影響力を使います。刺激を与え、条件づけをして、望む行動を引き出そうとします。

一方ミルキは、キルアに腹を刺された仕返しにムチで叩き返しはするものの、それで関係そのものを壊してしまうわけではなく、「刺された過去があっても関係の土台は壊れない」という、どこか対等な距離感を保っています。キルアの力が必要なときも、支配するのではなく、条件を提示して交渉するという発想ができるようです。

同じ「相手を動かしたい」という目的でも、支配によってコントロールするのか、関係のコストを最小化することでコントロールするのかという、方向性の違いがここにはあるように思います。そして、ゾルディック家の中でミルキだけが、誰にも憎まれない立ち位置を保てているのは、偶然ではない気がします。

ミルキは「強さ」ではなく「機能」で自分の価値を作っている

旅団はとても強いです。でも、その強さの中心はやはり戦闘能力です。

一方ミルキは、情報を集める、ハッキングする、武器を作る、機械を扱う、お金を稼ぐ、必要なものを調達するという、組織を裏側から支える能力を持っています。しかも、危険なことをする場面でも、「一番派手な方法」ではなく、「どうすれば一番安全に目的を達成できるか」を考えるタイプに見えます。

遠隔暗殺というローリスクな職能を選び、ほぼ合法的な手段で欲しいものを手に入れる合理性を持ち、ヤケ食いやフィギュア収集という形で、衝動を暴力ではなく無害な方向に転換できる自己統制力もあります。

ここまで考えてくると、私は「幻影旅団にミルキがいればよかった」とまでは思いません。

ミルキも決して倫理的に無害な人物ではありません。ゾルディック家の一員として暗殺の仕事にも関わっていますし、暴力そのものを否定しているわけでもないからです。ですから、レオリオやナックルのような「人を傷つけたくない」という倫理観を持つ人物とは、そもそもタイプが違います。

もちろん、ミルキ自身が旅団に入りたがるとは思えません。危険を冒してまで戦うタイプでもありませんし、旅団のような生き方を選ぶ動機も見当たらないからです。それでも、あくまで機能として考えると――ゾルディック家から一人、旅団に入れるとしたら。私は、イルミよりミルキのほうが、組織としてはずっと安定したのではないかと思ってしまいます。

ミルキは、必要なら暴力を使います。けれど、暴力だけで問題を解決しようとはしません。情報を集める。機械や技術を使う。お金を稼ぐ。必要なものを調達する。相手と交渉する。そして、自分より優秀に見える兄や弟がいる環境でも、無理に同じ土俵で競争しようとはせず、自分の得意分野を見つけています。

もちろん、ミルキも普通の感覚からすれば十分に警戒すべき人物です。ただ、「暗殺一家の人間でありながら、暴力を使うことと、暴力しか使わないことを区別できる」。このバランス感覚は、かなり特殊なのではないでしょうか。

もっとも、この解釈自体、私がミルキに親近感を持っているぶん、多少甘くなっている自覚もあります。

だからこそ、ヨークシン編を考えるときも、「ミルキがいれば、あの事件は起きなかった」というより、「旅団には、戦闘力をさらに上げる人間より、暴力以外の選択肢を考え、リスクを管理できる人間が必要だったのではないか」と思うのです。

コルトピの能力をどう使えば、より安全に目的を達成できるのか。どこまでならリスクを取っていいのか。誰を仲間に入れるべきなのか。ヒソカのような危険人物を、なぜ信用していいのか。そして、目の前の勝利だけではなく、その行動によって旅団そのものが将来どうなるのか。そういうことを考える人間が、旅団にはあまりにも少なかったように見えます。

ミルキが「善人だから必要」なのではありません。倫理的に問題のある行動を取ることがあっても、それと感情や衝動を制御できるかどうかは別の問題です。暴力を肯定する側の人間でありながら、それでも感情や暴力に振り回されず、組織にとって何が一番安全で合理的なのかを考えられる人間だったからこそ、面白い存在なのだと思います。

ここまでの対比を、一度整理してみたいと思います。

レオリオ・ナックル――他者への配慮や倫理観から暴力を抑える
ミルキ――暴力を否定しなくても、合理性と自己制御によって行動を選択する
イルミ――高い能力を持つ一方、他者を自分の意図どおりに動かそうとするため、組織にとってのリスクが大きい
旅団――戦闘力は高いが、組織としてのリスク管理や長期的な視点が弱く、目の前の目的を優先しやすい

という対比が、うっすら見えてくる気がします。


強さを「何のために使うのか」

結局、今回の考察でいちばん気になったのは、ここでした。

『HUNTER×HUNTER』には、強いキャラクターがたくさん登場します。でも、強いことと、人間として優れていることは、やはり別なのだと思います。

強さを、「殺すため」ではなく「守るため」「無力化するため」に使う人もいます。一方で旅団は、圧倒的な強さを持ちながら、その力で多くの人を巻き込んでしまいます。

だからこそ、「強い人間が組織を作れば、強い組織になる」とは限らないのだと思います。必要なのは、強さを何のために使うのか、そして自分たちの行動が組織そのものをどう変えていくのかを考えられる人なのかもしれません。

そう考えると、昔は「最強クラスの悪役集団」に見えていた幻影旅団が、今では少し違って見えてきます。強い。仲間思いでもある。魅力的な人物も多い。それでも、組織としてはどこか危うい。

そして、その危うさを考えていくと、以前は「引きこもりのオタク」に見えていたミルキの存在が、ずっと大きく見えてくるのです。


この記事は個人の考察・解釈をもとに執筆しています。

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この記事を書いた人

ブログ「心音」の管理人、こはくです。看護師・保健師・養護教諭の資格を持ち、介護・対人支援の現場に10年以上携わってきました。自身もADHD傾向による生きづらさを感じてきた当事者です。
また、家族を見送る経験を通じて深く悲しみと向き合い、グリーフ専門士の資格を取得しました。
現場で出会ってきた方々の姿と、脳科学・心理学の学びを重ね合わせながら、自分とやさしく向き合うためのヒントを綴っています。

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